批判と攻撃

一連の騒動で、スピリチュアルを批判する事に対しても批判をいただきましたので、ある記事をご紹介したいと思います。

とても共感できる内容でしたので、勝手ながら全文転載させて頂きます。

上から目線のスピリチュアル

「自分は悟りを得た」「私は覚醒した」という妄想に取り付かれているスピリチュアルおたく(以下「スピおた」)の人々は、いつも決まって「上から目線」だ。自分自身を「高尚な魂を持つ存在」と思い込んでいるので、言動が傲慢になるのも、ある意味仕方のないことなのかもしれない。

彼らは、その強い自己愛故に他人の目から見た自分、いわゆる「体裁」というものを非常に気にする。評判に傷がつくことがないよう、その傲慢さが表に出ないように常に気を配っている。だが、用心深く振舞っていても、「素」というものは、意識の隙間をついて浮かび上がってくる。口に蜜あり腹に剣あり―それが彼らの「本性」なのだ。

第三者に批判された時に、彼らの「腹の底」が透けて見える。過剰な自己愛から来る「自己防衛本能」が作動し、自分を正当化することに躍起になる。普段意識して隠している「驕り」がそこに出現する。

自分を批判された時に、スピおたが言う台詞は大抵決まっている。「低い波長の人は大きなコンプレックスを持っているから悪口や文句を言うのです」「砂糖が甘いということは、それを舐めた人にしかわからない。真理に到達していない人はそれを知らないから、到達した人に対してあれこれ言うんです」「他人を批判した人にはカルマが発生します。性格が悪くなったりひねくれたりするという形で自分に返ってきます」

話にならない。謙虚さの欠片もないというか、どれだけ傲慢なのかと。本人達がそのことにまったく気づいていないことが、さらにイタさを誘う。「低い波長の人ナンタラ」「真理に到達していないからウンタラ」「人を批判すると性格がカンタラ」すべて「自分のほうが(相手より)上にいる」という前提での発言なのだ。「一体何様?」と。

批判者に対する「上から目線」の発言が彼らから出てくる度にいつも思う。「あなた方が大好きな『宇宙の法則』や『カルマの法則』は、ご自分には適用されないんですかね?」と。

スピおた御用達の「宇宙の法則」「カルマの法則」というのは、いわゆる因果応報、「自分が出したもの・与えたものが返ってくる」ということ。彼らはこの法則が大好物だ。何かにつけて「宇宙のぉ~」「カルマのぉ~」とやっている。

その割には、彼らはその「法則」をまったく理解していない。その時々に応じて、自分に都合よく当てはめたり引っ込めたりしているだけ。本当にそれらを理解しているのなら、まずこう思うはずなのだ。「批判を受ける原因はどこにあるのか?」と。「何が批判を引き寄せているのだろうか?」と。

彼らはこうも言う。「すべてのことには意味がある」「今起こっていることはすべて正しい」だったら、なぜ批判の中に「意味」を見出そうとしないのか?向き合おうともせずに、それを「悪」「攻撃」として締め出すのはなぜか?「いつも正しいこと」が起こるというのなら、自分に対する批判も正しいということだ。だったらなぜその「正しいもの」を恐れるのか?

自分の出したもの―行動や発言が理不尽だったり、矛盾していたり、偏っていたりしていれば、当然それに気づいた第三者から批判や指摘が入って当たり前。内容がどうであろうと、もしそれがきちんと理に適った納得のいくものであれば、「こういう考え方もあるんだな」と誰も何も言わない。「考え方の相違」だけで終わる話。

矛盾や偏見、屁理屈を振りかざし、それを「真理」として他人に一方的に押しつけるという「原因」があるから、批判されるという「結果」になる。自分が出したものや与えたもの返ってくるという「法則」がきちんと働いているではないか。

彼らの場合、その批判が「自分にとって不本意なもの」である時、「原因」はすべて相手側にあると考えるようだ。「レベルの高い自分」に原因があるとは思いたくない。「魂のレベルが低いから」「覚醒していないから」自分はその「レベルの低い人達」に八つ当たりをされている、不満の捌け口にされている被害者くらいに思っている。だが、批判を引き寄せているのは、他ならぬ彼ら自身なのだ。

彼らは「批判」を「攻撃」「悪」としか受け止めない。「ひょっとしたら、そうされる原因は自分にあるのではないだろうか?」という考えに及ばないのは、心のどこかに「スピリチュアルに生きている自分」「スピリチュアルに目覚めた自分」という驕りがあるからだ。

「批判」とは、言いっ放しや言い逃げが可能な匿名の掲示板やコメント欄に書き込まれる根拠のない「中傷」とは訳が違う。「この部分が矛盾している」「ここがおかしい」きちんと論理と根拠に基づいたものだ。それを一方的に排除しようとするのは、狭量さの表れだ。有り体に言えば、「正しい自分」が意見されることが我慢ならないのだ。

「謙虚さを持つ人」は、常に自分を客観視することが出来る。批判を「別の視点からの見え方」として、自分を省みる材料にする。「批判する人はコンプレックスを持った波長の低い人」とか「他人を批判したカルマは、自分の性格が悪くなることで返ってくる」などという相手を貶めるような発言をする前に、まず自分自身の言動をチェックする。それは「卑屈さ」とはまったく違うものだ。

「自分は正しい」という思い込みをベースに物事を捉えるから、「正しい自分を批判する相手がおかしい。間違っている」となる。当然、批判や指摘を「自分を否定するもの=攻撃」としか受け止められない。どれだけ自分達が偏った位置にいるか、物事を偏った視点で見ているか―彼らはそのことにまったく気づいていないのだ。そして、そういった部分は、彼らの価値観や本音、本質といったものの表れでもある。

そして、「批判したり否定するのは愛がない」などという妙な定義の下に繰り広げられる気持ちの悪い仲良しごっこが、更にその「無知」を増長させるのだ。その結果、「裸の王様」が溢れかえる。「本当の自分の姿」を知らない、知らされない、知ろうともしない人々が。


逃避願望と自己愛が強く、自分を省みる謙虚さを持たないスピおたにかかったら、「宇宙の法則」も「カルマの法則」も、簡単に捻じ曲げられてしまうのだ。なぜなら、彼らにとってあくまでも「正しいのは自分」なのだから。自分が正しくあるためには、自分のプライドを守るためには、どんな手を使ってでもそれ以外のものを捻じ曲げる―それが彼らの流儀なのだ。




【追記】「他人を批判すると、そのカルマは自分の性格が悪くなるということで返ってきます」「低い波長の人が他人を批判するんです」とか、何言ってんだかの世界です。「他人の目を気にして言いたいことを言えない人」が言うに事欠いて、悔し紛れに「おまえのかーちゃんでーべーそー!」と悪態ついているようにしか思えません。

そんなこと言ったら、学校の授業にも取り入れられているくらい議論が盛んなアメリカなんて、波長が低くて性格の悪い人だらけじゃないですか。議論には批判が付き物ですからね。白熱してくると、そりゃあものすごい状態になります。

どうして「批判=悪」となるんでしょうね??完全に個人の価値観というか、思い込みです。まあそう決めつけるのは、意識の中に、「はっきり物を言う人」に対しての妬みや憎しみのようなものがあるということです。過去にそういったことにまつわるトラウマがあったりとかね。その人の「こだわり」から、その人の「過去」や「恐れているもの」などが推測できるわけです。

自己愛が過剰な人の文章というのはすぐ判ります。くどくどと言い訳がましいですから。「これはこういうことであってこういう意味ではありません」とか。「懇切丁寧」とは全然違います。媚びも目立ったり。自分のブログなのに誤解されないように気を使ったり、好かれるようなことを言おうとするあまり言いたいことも書けないなんて、一体意味があるんですかね?ある意味気の毒です。

「自分が何を言いたいか」ということより、「どう言ったら他人に受け入れてもらえるのか」「気に入られるにはどんなことを言ったらいいのか」ということが大事なんでしょうね。

「人を批判すると性格が悪くなる」って言いますけど、性格が悪くなるというカルマを恐れるあまり、言いたいことを溜め込むほうが、よっぽど「歪んだもの」をもたらすと思いますけど。表面上は「いい人」に徹して、実は腹の中では「上から目線」全開で、人を小ばかにしているスピおたさんを見ていると特にそう思います。

傲慢さと、自分に都合の悪いことから逃げ回って相手を攻撃するということから生じる「カルマ」は、当然スピおたさん自身に返ってくるんですよね?だってそれが「宇宙の法則」ですもんね。

どちらにしろ、自分を批判する相手を「理不尽な因縁を吹っかけて絡んでくるチンピラ」扱いした挙げ句、「上から目線」を装って逃げるのは、卑怯者のやり方です。


私の心の中のモヤモヤを、明快に、そして軽快に語って下さって、本当に痛快。
スッキリしました。

実は私自身も、かつてはスピリチュアルに傾倒していた時期があり、こうした世界感を受け入れられない人、他人を批判したり非難する人は波動の低い残念な人、という様な、傲慢な人間になってしまっていた時期があります。

そして自分の世界観を否定してくる人に対して、三次元というレベルの低い世界に生きている人、目に見えるものしか信じる事のできない頭の硬い可哀相な人達、という上から目線の意識がどこかにあった様にも思います。

その後、スピリチュアルに嵌りすぎると、自分でも知らない間に、そうした不遜な考え方が定着してしまう危険性を、次第に認識するようになりました。

また、目に見えないものや世界を信じられないのは精神性や霊性が低いからだと切り捨てる一方で、そうしたものを盲信してしまう事は、逆に人生を踏み外してしまう事につながる為、自分もスピリチュアルから離れると同時に、スピリチュアリズムの落とし穴についても警告する側の立場になりました。

未だにスピを否定すると、目くじらを立てて反発される方が多い様に思いますが、そうした方は、ご自分がこの様な精神状態になっていないか、もう一度冷静に見つめ直していただけたらと思います。

洗脳されたり、マインドコントロールされているかも知れません。
スピ系に限らずネットで誰かのブログを読む時も、こうした罠があちこちに仕掛けられていますから、十分ご注意下さい。
表向きには宗教の気配が巧妙に隠されているのですが、実はどこかの宗教と繋がっている事が往々にしてあります。
そして、特定の思想や信仰に誘導されて、そこから何かを購入させたり、講演会に申し込みさせたり、様々な出費が続く様になったら、警戒して下さい。

いくら耳障りの良い事を書いてあったとしても、それは高額な商品を購入させたり申し込みをさせる為の入り口でしかないと私は思います。
一般的には霊感商法と言われています。

あるいはそこに集まってくる人で仲良しコミュニティを作って、こっそり信者にするという狙いも隠されているのかも知れません。

ネットも危険がいっぱいです。
時々自分を振り返る事は大事ですね。

スピリチュアルサイトによく出てくるフレーズ

無条件の愛
執着を手放す
ジャッジしない
地球を愛と光の波動で満たす
不幸な人達の所に愛の想念を送る

こういう事が毎回の様に書かれています。

そしてそれを熱心に読んで、自分はスピリチュアルな人間だと思い込んでいる人が、他人からちょっと批判されただけで逆上したり相手を罵倒したり嘲笑したり、仲間内で陰口を言い合うのって変じゃないですか?
愛の足りない人には愛を送るんじゃなかったの?
ネガティブな事に執着せずにすべてを手放すんじゃなかったの?

なのにやっている事は全く正反対。
そんなのぜんぜんスピリチュアルな人じゃない。

私は、自分には無理だとわかったので、さっさとその世界から飛び出しました。
ああいう人達のコミュを見ていると、妙にお互いに褒め合ったり持ち上げたりおだてたり、なんだかそう言うのが性に合わなかったし、そういう中に入りたいとも思わなかった。
疲れるだけだと分かっていた。
なんかあのテンションというか独特の雰囲気に嫌悪感も感じていた。
まあ、それが好きな人はそれでいいんでしょうけれど。

人によく思われようとか、優しい親切な人に見られたい為に、自分を偽ったり、取り繕って生きたところで、結局何も残らないじゃないですか。
取り繕うのが苦手な私は、どんなに影で馬鹿にされようとも、ありのままの自分でしか生きられない。

それに、思いっきり素の自分で生きる事でしか、本当に生きたとは言えないんじゃないでしょうか。
ただし、他人に迷惑を掛けたり、苦痛を与えたり、犯罪を犯さない範囲で。
↑これをやるのが集スト加害者ですね。


本記事管理人様へ
Copyright表示がありましたので、本来であれば転載不可なのでしょうけれど、あまりにもこうした上から目線の人達が目に付き、他者を見下す様な言動をしている様に見える為、ルール違反を承知で、転載させて頂きました。

本記事の転載に異議申し立て等ありましたら、ご連絡頂ければ、速やかに削除、若しくはリンクのみに変更致します。
管理人様におかれましては、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。



関連記事
スポンサーサイト

コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

2016/01/05 (Tue) 19:45 | # | | 編集

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する